№26.旅芸人達の記録〔前編〕


週末を利用してまたシンガポールへ行って来た。この小さな島国へは今回で3回目の入国である。前2回はKLからの飛行機旅だったので入国カードを書いている内に到着してしまい何の感慨も抱かなかったが、今回はKLから車で移動したのでちょっと趣の違った旅となった。まして、今回は観光旅行やビジネストリップではなく何と演奏旅行だったのである。“アジア暮らし秘話”第13話にも登場した我Deep South Blues Bandなるバンドがシンガポール在住日本人駐在員で組織されたアマチュアミュージシャン達の定期コンサートにゲスト(半分押しかけ出演だが)として出演することになり、メンバー全員にとって初めての海外演奏ツアーとなったのである。 “海外演奏ツアー”と言えば聞こえは良いがメンバー全員仕事を持ったうえでの道楽の範疇でやっている為に使える時間とお金には限りがある。土曜の夜の僅か30分間の出演なので“あまり金がかからず時間的効率も良く且つ贅沢気分で充分楽しめる日程を!”との皆の暗黙の要求にバンドのリーダー(G)が考えて来たスケジュールの最終案がこれだ。マレーシア~シンガポール間を旅する予定の方にはちょっとしたヒントになるかも知れない。 ①料金が高く自宅~空港~目的地の時間をロスする飛行機はやめて車で移動する。 ②ホテルの高いシンガポールは出演当日の土曜一泊のみとして前日の金曜は割安なマレーシア南端の都市ジョホール・バル(JB)のホテルに一泊する。 ③シンガポール入出国は長蛇の列が待ち受ける国境コーズウェイの自家用車レーンを避け別レーンで悠々と通過可能なチャーターバスとする。 ④初日に節約したホテル代をシンガポールの高級ホテル“マリオット”に注ぎ込み贅沢感を満喫する。 等々なかなかの名案だ。


上記案をリーダーが一人で段取りしてくれた関係で当日までの事前準備はいたって簡単だった。出演時間が短いことや聴衆ほぼ全員が我々を初めて観る筈なので特に新しい曲を用意するワケでもなく、いつも通り臭いのキツイ激安練習スタジオとプロ仕様の高級スタジオの併用でダラダラと数回構成を確認した程度だ。 それに当然だがメンバー全員海外在住者のため旅は日常茶飯事、荷造りなどは当日にやることに決まっているし、そもそもシンガポールを外国だとは思っている者はいないのではないか。とはいえ、当日は各自かなり高価な楽器を持参して国境を越える予定なので経験者の指導もあり事前に通関用リストを作成し仲間の関係するJBの会社に託すことになった。このときは「へ~外国に出るとこんなことも必要なのか、大変だね~」程度の認識だったが後にこの書類が絶大な効果を発揮するとは気付いていなかった。


2月1日金曜の夜、ドラマーとシンガーの住むシンガポール方面へ向かうハイウェイ入口にほど近い高級コンドミニアムの駐車場に皆集合した。夜間照明でプレーしているテニスコートを横目に3台の大型乗用車に楽器を丁寧に積み込みこんだ。見送りに来てくれた音楽仲間の先輩夫婦とともに記念撮影をし演奏旅行の成功と無事を祈った。 メンバーのうちピアノとハープの2人は既に出張を絡めてシンガポール入りしているので、パキスタン帰りで疲労が溜まったか病欠のオルガン1名を除きメンバー6人と家族4人(シンガーの奥さんと小さい息子、私の妻と10才の末娘)の計10名が車3台に分乗することになった。運転する3人のメンバーはジョホール・バル市内の地図のコピーを見ながら、「JB市内は運転したことがないよ!」、「俺はそのホテルで食事したことがあるけど行き方は忘れた。」、「行けば何とかなる!」などと言い合っていたが「とりあえずJBまで行こう!」と言うことになり結局予定より遅れること20分の午後8時20分にそのバブリーなコンドミニアムを出発した。目的地のジョホール・バルへの到着予定時刻は深夜0時、スランゴール州~ヌグリ・スンビラン州~マラッカ州~ジョホール州と4州をまたがり緩やかに南下する350kmの移動だ。私と私の家族はリーダーの運転する黒のマレーシア国産プロトン社製“ペルダナ”に乗せてもらい先導車として夜のセレンバン・ハイウェイに乗った。


SONY,HITACHI,DENSO,JVCといった日系企業の工場密集地のバンギを通り抜けたあたりから周囲は一段と暗くなる。果てしなく続く広大なパームツリープランテーションの景色の壮観さも真っ暗闇の世界では不気味な黒の森でしかない。暫く走ると“セレンバン”の標識が見えてきた。以前このあたりでハイウェイをおりて西南にある“ポート・ディクソン”というビーチにとりたての免許で運転して来たことがある。そこは外国人観光客が来るようなところではなくローカル達(マレー系が多かった)の近場の遊び場のようなところだった。その時は水遊びする末娘を尻目に炎天下でオーバーヒート気味の車を冷やすのに必死だったが、浜辺を見るとほとんど水着姿の人が居ない。人前で肌を出さないマレー人達はビーチに来ても服を着たまま水遊びをする程度なのだ。もちろんダイビングスポットが点在する東海岸などと比較すると西側はあまりキレイとは言えないので水着になったって泳ぐ気にもならないとは思うが...。


車は順調に飛ばしマラッカまで来た。休憩をとろうかとリーダーが他の二台に携帯電話で連絡を取り合っていたが子供達は寝ているようなのでそのまま走ることにした。マラッカといっても観光地で有名なマラッカに行くのにはマラッカ海峡まで南にかなりの距離がある。“マレーシア最古の街”と言われているこの街は日本からのツアー客も多い。マラッカがどこにあるか知らない人でも“マラッカ海峡”という言葉は聞いたことがあると思う。場所が分からない人は世界地図を引っ張り出して見てほしい。小さいが有名なシンガポールからみるとすぐ隣の半島がマレー半島、下の大きな島がスマトラ島、その間の海がマラッカ海峡だ。海峡を北上するとリゾートで有名なパンコール島、ペナン島、ランカウイ島と続きタイ領に入っていく。地球儀などで見ると位置的な重要さが良く分かると思う。マラッカ自体はそんなに広いところではないので一泊くらいで来れば充分歴史を満喫出きるとガイドブックにも書いてある。実際に行ってみると観光地らしすぎて興味が失せていく人も多いのではないかと思うが、私の場合は日帰りの駆け足旅行でしか訪れたことが無いので何とも言えない。ただ、もう一度あの煤けた建物をぼんやり眺めながら中華とマレーの混血料理である“ニョニャ料理”を味わってみたい気はする。ゆっくりと時間をとって行ってみたい所のひとつだ。しかし、今回はアジアの大都会シンガポールへの演奏旅行なのだ、歴史探訪の旅はまたの機会の楽しみにとっておこう。


車内での会話の話題も尽きて来た頃溜まっていた疲れもありウトウトしそうになった。後ろの座席では妻と娘は寝入っているようだ。『寝てしまったら運転しているリーダーに悪いし、ちょっと飲んで景気をつけて...イカンイカン、これはもっと申し訳ない...』などと妄想していると「前川さん、そろそろビールでも飲みくなってきたんじゃないですか?」と見透かされてしまった。眠気覚ましとトイレタイムのため車はマレーシア南端のジョホール州に入り少し走った後パゴーという地域で休憩所に入った。マレーシアでハイウェイのサービスエリアに入るのは初めての経験だ。トイレ、売店、軽食レストラン等々日本のそれとほぼ同じ構成だったが、驚いたことにトイレは想像してたよりはかなり清潔であった。これは“マレーシア人と待ち合わせして相手が時間通り現れた”ときのような嬉しい驚きであった。 しかし、売っている食べ物に関しては良く利用するメンバーの話によると全てと言っていいほど“ハズレ”らしい、あえて言えば“ナシ・レマ”が水準を保っている程度とのことだ。まわりで食べている人の料理を見ると確かに美味しく無さそうだ。まして私は全売店をくまなく探してみたがビールの“ビ”の字も見当たらなかったので(当たり前か?)トイレは比較的清潔だったがここに合格点を付けるワケにはいかない。


気をとり直して一気にジョホール・バルまでひた走る。途中スピード違反のトラップがあり後続車が引っ掛からぬかと心配したが3台無事に通過した。検問の警官が複数人の為ここでは“見逃してよ作戦”は通用しない。こんなところで止められて時間を無駄にするワケには行かないので制限速度オーバー時速20Km未満の“安全運転”に限る。 視界に建物の灯りが多くなり「JOHOR BAHRU」の看板に従いハイウェイを降りると、KL近郊のシャーアラムのような景色になって来た。JB市内に入り中心地への道を一度間違えたり、目的のホテルを間近に見ながら一方通行で近づけなかったりして若干の戸惑いはあったが、なんとか無事JBの“ザ・プテリ・パン・パシフィック・ホテル”に到着した。既に日付は変わりチェックイン時点でホテルのレストランやカフェは全て閉店していた。皆かなり疲れ気味だったが空腹と控えていたアルコールへの欲望を断ち切れず、ホテルの近辺にあまり店が見当たらないにも拘わらず一旦部屋へ荷物を置いた後ロビーに再集合し外に出ることにした。 寝てしまったシンガーの息子と奥さんを部屋に残して残りのメンバー(10才の娘含む)は“治安が悪い”と有名な夜のJBにくり出して行った。ベースマンが集合場所のロビーになかなか現れなかったので歩きながら「部屋でベースでも磨いてた?」と茶化したら「ケースから出して弾いてた」と言う。車の振動で楽器に異常が出てないかチェックしていたようだ。早く飲み食いに外に出たくて部屋にギターをぶち込んで来た私とは大違いだ少しは見習わなければ。


ブラブラと暗い夜道を歩く、KLだとこのクラスのホテルの周辺には深夜でもレストランや屋台など何かしら食べ物屋があるのだがここはちょっと勝手が違うようだ。ホテルを出たときは「セブン・イレブンだけでもあってほしい!」と思うくらい何も見当たらなかった。観光客が絶対一人で通らないほうが良さそうな細く暗い路地を抜けて大通りを暫くゾロゾロと歩くとやっと薄汚いローカル屋台風食堂が見つかった。店員の一人が“カールス・バーグ”(通称:カスバ)の販促用ユニホームを着ているので念願のビールも置いてあるのが分かった。普段のように正常な判断力があれば絶対入りたいとは思わないこの手の場末食堂も、疲れと乾きから一瞬オアシスに思えたのが今となっては不思議だ。「オ~レディ・クロース・ラ~」なんて言われないうちに我々は勝手にテーブルをくっつけて8人分の即席宴会場をこしらえてしまった。場末の店にふさわしい容姿のおばさん店員が持って来たメニューを見ると何と妙な日本語が書かれている。“イカの”、“チキンの”など中途半端だが、香港で見た“リダコ”やKLバングサでみた“あえぱう”などよりは意味が分かるのでマシなほうだ。とりあえずビールやソフトドリンクを注文してから各自“ミー・スープ”や“チャー・クイティヤオ”等をばらばらに注文した。余談だがKLでよくある俗に言う“コーヒーショップ”のように大家さんが飲み物を売り、店子である複数の自営屋台が各種食べ物を売るシステムであれば注文したものを間違うことは殆ど無いのだが、この手の使用人が注文を聞きに来るような店の場合、客の数が多いと間違ったものが運ばれてくることがある。まして、“やっぱりミー・スープ・チキンはやめてクイティヤオ・ゴレンね!”などと注文変更を出せばかなりの確立で食べたい一品が遠のいていくのである。そんな心配をしながらも運ばれて来たビールとソフトドリンクで一同無事ジョホール・バルに到着したことに乾杯することにした。「乾杯!」、「お疲れ様!」...グイグイ....ゲゲ、何だこれ...ぬ、温い。せっかく我慢に我慢を重ねてやっとありついたこの一杯だったのに、なんとビールが冷えてない。こんなことが許されていいのかとビール党一度は不満タラタラ。 普段は大人しいが食べ物屋では我侭言い放題のジョージ(Sax)が氷を持ってこさせ(アジアでは珍しくないが)ビールに浮かべて飲むことにしたが最初の一杯があれでは興醒めだ。その後も、注文してないものが来るのは計算通りだが 店員が料理のタレをメンバーの服に垂らして『ソーリーア~』だけで行ってしまったのをはじめ、出てきた麺は時代物まがいだったり、 野菜に異様な味(腐っているともいうが)が付いていたり、 挙句の果ては私の後方で酔っ払いの爺さんが騒ぎ出す始末。 何も豪華な雰囲気の食事などは期待していなかったが初日としては散々な宴会となってしまった。 ホテルへの帰り道「もし、明日皆お腹こわして30分もステージに立ってられなかったら困るね~。」などと半分本気の冗談を言いながら一同は部屋へ戻って行った。この夜恐らく全員が「JB最低!」の評価を下したことだろう。この日寝たのは皆深夜2時半くらいだったと思う。『こんなに疲れていて、みんな明日は大丈夫だろうか?』と心配になって来たのは夢の中だったかも知れない。


(№26.旅芸人達の記録〔前編〕 おわり)

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