№48.【実録】医療トラブル体験談〔中編〕


ちょっと前になるがマレーシアの病院で胃カメラをのんだ。直接のキッカケは酒を飲んだ夜に妙に気持ち悪くて吐いたら血が混じっていたからだ。実は数年前にも健康診断で十二指腸辺りに影があると言われたまま放置しておいたこともあり『この際覚悟を決めて医者に診てもらおう!』と決心して妻の運転で病院へ向かった。最初に行ったパンタイ病院は日本語の出来るドクターが休暇中で閉まっていた。雨の中、萎えかけた気持ちを奮ってバングサという所にあるジャパン・メディケア・センターに車を走らせた。7年も暮らしていると、普段はあまり日本語に頼らなくても生活は出来るが、病気の時はやはり気が弱くなっていることや、微妙なニュアンスを医師に伝えきれぬが故のトラブル等あっては困るので、少々診療代は高くても日本語の分かるドクターを尋ねてしまうのである。簡単な問診の後ドクターから『心配だったら、今胃カメラのむか?食事はしちゃった?』と、胃薬でも飲むような軽い言い方で訊かれたので、一瞬勢いでその気になったが、やはり胃カメラは苦しいものという先入観のために『心の準備が出来てません』と翌日に実施することにしてもらった。しかし、色々な意味で覚悟をもって臨んだ翌日は想像以上に簡単であった。催眠剤を注射して寝ている間にカメラを挿入し撮影することに同意(サイン)したからである。苦悶の表情で長い管を飲み下す自分を勝手に想い描いていたが、口からカメラを挿入したかしないかのタイミングで寝てしまい、呆気ないほど苦痛はゼロであった。睡眠から目覚めた後は軽いスナックと飲み物を口にして待機し、名前を呼ばれてドクターの部屋へ入る。録画された映像をドクターと一緒に点検し“特に問題はないようだね”とのお墨付きと、記念の体内探検旅行映像CDを頂き全工程の終了であった。 常日頃からマレーシアの医療に関しては危ない噂(幼児に投与するという薬を直前に日本の医師に問い合わせたら劇薬だったのでストップさせたとか、痔の手術で肛門を切り過ぎたとか、何の手術だったか術後に半身不随になったとか・・・)を多々耳にしていて不信感アリアリの自分としては、思い切った決断と積年の懸案を晴らせた思わぬハッピーエンドであった。


しかし、ここでハッピーエンドでコラムが終わってしまっては、この駄文集の意味も半減してしまう。今回書きたいのはNO.45の続編だ。医療ミスの疑いを曖昧にして何ら誠意を示さない大病院GleneaglsのCEO Mr.Stuart Packと担当医のDr. Chan Kim Yuenとのやりとりと経緯だ。彼らだって医者として高尚な理念の元に普段は行動していて、大多数の患者を治癒に導き、社会的にも立派な評価を得ている人達だとは想像出来ないこともない。しかし、彼らが我家族にとった態度と行動は“詭弁を弄し”、“時間稼ぎをし”、“事を曖昧にした”と言わざるを得ない。以下がその経緯の続編である。(妻が記録し、私がアイロニカルに怒りを抑えて加筆訂正した内容である。記録が膨大且つ詳細過ぎるので要旨のみとして他は大幅割愛したが、場合によっては匿名にしてある部分を実名にして詳細描写を付加して再公表することもも可能だ。また、時間の経過具合にも是非注目してほしい。如何に病院側の対応がスローかが分かって頂けると思う。)


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【12 Nov 2004】
突然病院を移ることになった当日、Gleneagles病院のJapanese Liaison(リエゾン:患者と医師の間に入り通訳をしたり相談にのってくれる人、以降“K女史”という)に電話した。 「私は、息子の手術後の処置に不満があるんです」と言ったら「それはドクターに、直接ぶつけていただけましたか」と問われた。 しかし、私には「ラバー(と、私は勝手に呼んでいた、正式にはDUODERM)を使う治療は(膿が出ている状態では)皮膚によくないと思った」と言うのが精一杯だった。 新しい病院で診てくれる次のドクターに詳細を取り次いで貰わないとならないから、あまりしつこく申し立てて心証を害してもいけない。 それより、翌日からは長い休みに入ってしまうし、連絡した新ドクターはもう直ぐ病院を出てしまうというので、大急ぎで病院へ向かわなければいけない。 とにかく混乱していた。後で主人に電話して説明したら主人は即K女史に「病院に正式に抗議したい」と電話をした。K女史からは、今までの経緯をまとめて文書にして 出してくれとの事だった。 余談だが・・・私は普段からGleneagles病院を利用する時にはリエゾンに相談することにしていたから、何人か居るリエゾンの1人K女史の携帯番号も知っていた。 実際、息子が怪我をした日(26 Oct 2004)には、病院に向かう車の中からK女史の携帯に電話した。午後5:50すぎだった。まだ遅い時間でもないので何回もかけた。 でも相手はでなかった。慌てて他のリエゾンにと思い病院に電話したら、日本人のリエゾンはみんな帰ったと言われた。 まだ午後6:00前だった。もしかして後で向こうからかけてくれる事を祈りながらも、こういうことは迷惑なのかも知れないと思い再び電話することは遠慮した。 結局、電話はかかってこなかった。


【14 Nov 2004】
10月26日に骨折してから11月14日までの治療の経緯とそれに対する不信感についてを主人が日本語で纏め、カナダに居る娘に英訳させて正式抗議文を作成した。 この時点では病院のどのセクションに抗議したら最も効果的なのか不明であったのでK女史宛にFaxで送信し、適切な部署に転送してほしいと依頼した。


【17 Nov 2004】
抗議文書に対する返事が遅いので息子の通うISKL(International School Kuala Lumpur)の学校付きナースに相談すると、校長先生に抗議文書を見せて加勢してくれた。 結果、Gleneagles病院のトップであるCEOの名前、Fax No.およびメールアドレスを教えてくれた。ありがたいことに、直接CEOにメールしCCにISKLの校長先生とナースの メールアドレスを入れることをも提案してくれた。もう少し待って返事がなかったら、そうさせて貰うことにしたが、その直後K女史から14日に送った抗議文書を 受け取ったこと、関係部署(クレーム係)に提出する旨連絡が入った。


【18 Nov 2004】
手術の為息子は再び入院した。皮膚と皮下組織と腱の移植手術が施された。午後4時過ぎに始まり8時過ぎまでかかった。発端は指1本の骨折であったのに、包帯が幾重にも巻かれた左手は 白いボクシンググローブのようになって、腕までも包帯がぐるぐる巻きで、見るからにそれは痛々しかった。


【19 Nov 2004】
FAXした抗議文が責任者に届けられていないのではと危惧された為、主人がGleneagles病院のCEO宛てに再抗議の意味のメールをISKLの校長とナースのアドレスにCCをいれて送った。 ISKLのナースに電話してその旨伝えると、ナースもメールを確認次第CEOにメールを見るよう電話してくれると言った。 私は、何かと親身になってくれるナースに、左手を包帯でぐるぐる巻きにされた息子の姿を見たらもうとても我慢できない、と思わず心情を吐露していた。 CEOからは即返信メールが来た。Faxは昨日受け取った、現在調査中であり、終わり次第連絡するというお決まりの内容だった。


【29 Nov 2004】
Gleneagles病院のDr.Chanのクリニックから、彼のナースが私の携帯に電話をしてきた。Dr.Chanは、息子に会いたいけど会えますか、と言う。とんでもない、まだ未成年の息子を言いくるめるつもりなのかと思った。電話なのに、息子を隠したい気持ちだった。そして「Mr.前川は、Dr.Chanに会って説明を聞きたいのですか?」と言う。私は荒い呼吸を整えながら「私達は、CEOに抗議文書を送って、病院の調査結果と、CEOからの説明を待っているんです」と答えた。そう言うと「ああ、そういう事ですか」とナースは言って、電話をきった。どういう事なのだ!? CEOにメールを送ってから10日も経つのに何も言ってこないで、これで調査なんてされているんだろうか。私が興奮して主人に電話で伝えると、主人は直ぐCEOにメールを送った。調査していると返事を貰ってからもう10日経つけれど何の連絡もないが、いつまで待ったらいいのか期日を決めて欲しい。私の日本人の友人達も、この件について興味をもって注目している。そして、私は典型的な日本人と違いあまり忍耐力があるほうではないのです、と。


【30 Nov 2004】
先の意図的に不躾に書いたメールを見て対策を相談しているのか、Gleneagles病院のCEOからは返事が来ない。まるで無視されているかのようでもある。主人もこのままダンマリをキメこまれても癪なのでと、会社のコンサルタントに弁護士を紹介してもらい更なるアクションを起こすことにした。


【1 Dec 2004】
Gleneagles病院のCEOから主人に返信がきた。しかし、「Dear Mr.」とタイプされただけで内容は空白であった。慌てて操作を間違ったのだろうが、追って訂正メールも来ないので主人は追い討ちをかけるように、これは何かの間違いですか? 私達は今、弁護士とコンタクトしています、と空白メールに返信した。


【2 Dec 2004】
主人の会社のコンサルタントに紹介してもらった弁護士に会う。場所はミッドバレー地区の大きなショッピングモール近くのオフィス街。彼の所属する弁護士事務所だ。 ターバンを巻き威厳のある風貌のシーク教徒の彼が最初に言ったのは「医療ミス及び医者の怠慢を立証するのはとても難しいことですよ」だった。主人が治療の経緯を私の記録を元に説明したが、ラバー(DUODERM)は怪我の治療にはよく使われるものだし、何か異常があったようには思えない、と言われた。「異常です!」と私はきっぱりと言った。「Dr.Chanは、死んだ皮だと言って傷の上の皮を剥がして、赤く腫れているその上にラバーをかぶせたんです。そして次に行った時には傷は膿んで開いていたのに、また同じにラバーをかぶせたんです」息子の哀れな包帯姿と、ここでも親身になって聞いてくれないのかとの思いが重なり涙ながらに訴えた。弁護士の態度がすこし同情的に変化した。今後も相談にのってくれると言い「記憶は薄れていくので、今まであった出来事は全て今と同様に記録しておくように」と言われた。まずは抗議文書を送って、返事がきても、納得いかなければ又抗議文書を送る。それを繰り返すうちに、メディカルレコードを要求して他の医者に見てもらう運びになるので、そうしたら私が病院にレターを書くからと言った。メディカルレコードを検証してくれる医者も、探してくれると言った。 主人が報酬の話を持ち出すと、もう少し後になってから決めましょう、ということになった。


【3 Dec 2004】
何に時間がかかっていたのか不明だが、この日やっとGleneagles病院のCEOから主人にメールがあった。諸々説明するので都合のいい日時を知らせてくれと言う。 主人は日本からの来客が帰国する日で会食の予定があったが7日火曜の午後4:00に病院を尋ねることにした。


【7 Dec 2004】
Gleneagles病院のCEOと初面会日。CEO達は約束の時間になっても私達夫婦の待つ応接室に顔を出さず受付近辺で談笑している。主人は秒針が午後4時を指したと同時に席を立ち「我々は待っているのですよ」とチラリと怒りを向けた。謝罪すべき人間が相手を呼びつけておいて尚且つ待たせるなんてことを許していては交渉にならん、とのことだ。CEO達も談笑をストップして神妙な顔つきでゾロゾロと応接に入ってきて、遅れた理由をK女史が他の患者の通訳をしていた等々言っていたが主人は無視した。病院側からはCEO、Ms.Ong(Quality Manager)、K女史の3名が出席した。初めて見るCEOは一見紳士的な欧米人だった。Dr.Chanとは、今日の午後話したと言う。ドクターからのレポートも、受け取っていると言う。もし私達が望むなら、Dr.Chanも同席して説明を受け質問が出来る機会を設けるけれど、ドクターには会いたくないですか、と聞いた。主人は、自分は構わないが妻は嫌だと思いますと答えた。私は(顔も見たくないので嫌だと)首を横に振った。CEOはもう一度「前のドクターと今のドクターと私達で話し合って検証すれば、それは私達にとって有意義(comfortableという表現で言った)だと思うけど」と言った。私はCEOを見つめて言った。「Dr.Chanに会うのは、comfortableじゃありません!前のドクターと今のドクターと私達が会うのは、私達にとって全くcomfortableじゃありません!」涙がこぼれた。CEOは「息子さんはいかがですか」と聞いた。「息子は指が治るか心配しています。息子はプロのベーシストを目指していて指は命です、完治するか非常に心を痛めています」と答えた。 「(移った先の病院でDr.Ranjit医師には)どんな治療を受けましたか」と聞かれた。「手術は、皮膚と、皮下組織と、腱の、移植でした」と答えた。「経過は良好ですか」とCEO、「今のところは」と答えるとCEOは「Dr.Ranjitもこの病院の優秀なドクターの1人です」とヌケヌケと言った。 忌ま忌ましかった。「どうしてそんな事になったと思いますか」CEOは続けた。 私はCEOを見つめて「たくさん膿が出ていたのに、Dr.Chan は再びラバーで湿った患部をカバーし、以前と同じことを繰り返したのです。そしてそのまま、3日も放置したのです」と答えた。 Dr.Chanのレポートについて主人が聞いた。内容については、治療はノーミステイクだという。主人は「それは絶対に受け入れられません」と言った。Dr.Chanのレポ-トのコピーを貰う事にして「弁護士と相談します」と言った。CEOは、私達は何を求めるのかと聞いた。主人は「Dr.Chanの謝罪文。そして治療に掛かった費用相当の慰謝料を求めます。Moneyですよ!」と明確に答えた。CEOは、レポートを検討して質問があれば、いつでもしてきてくれるようにと言った。また、K女史に翻訳を頼んでもいいと言った。翻訳は必須ではなかったが専門用語などもあるので、さっそく依頼して大病院を引き上げた。


【8 Dec 2004】
K女史からDr.Chanのレポートの翻訳がFaxで届いた。内容(翻訳以前の)のイイカゲンさに怒りで体の震えがとまらなかった。


【15 Dec 2004】
主人は7日のCEOとの面会で受け取ったDr.Chanのレポートに対する新たな抗議文書を日本語でまとめK女史に翻訳を頼んだ。Dr.Chanのレポートは、私の記録とはまったく違っていた。手術後2回目の診察日には、ナースしかいなかったのに、あたかも自分が診察したように書いてあった。手術後10日目の4回目の診察では「回復は早めです」と言ってリハビリを開始したのに、なんと傷は開き始めていたと書いてあった。そして傷は膿んでいたという私達に対し、それは漿液であり膿ではないとあった。そして、私がラバーと言っている、にくにくしい創保護材についての記述を見た時戦慄した。その名称はDUODERMと大きく、他の活字の2倍3倍もの大きさで書いてあった。そればかりか“素人が何を言うか!”のごとくその創保護材の効用を連ねてあった。 あんなもの使わなければ、あのラバーじゃなかったら、包帯だったら、ほどいて傷を見ることもできたのに。いや、ほどいて見るまでもなく溢れ出す膿で頻繁な包帯交換は必至と判断出来ただろう。慣れないものを付けられたばかりに、効用を疑問に思いつつそのままに放置してしまった自分を母親として責めずにいられなかった。 ラバーをつけて傷が悪くなった可能性が大きいのに「これは必要だから」と言って教科書通り又ラバーを付けた。それも、傷の具合を見て同様の処置をすることをためらう看護婦からラバーをひったくってドクター自ら付けたのだ。その後“深刻な状態だ”と言いながら3日間も放置して皮膚も肉も溶けて骨が見えてしまってから、別の医者に行くようにと言った。なす術がないのなら(自分の能力では解決できないのなら)どうしてもっと早くそうしてくれなかったのか。しかも別の医者というのは手の骨などの細かい部分の専門医(手の外科・マイクロサージェリー)でありGleneagles病院の同じ階にもクリニックを持っていたのだ。専門医がいるなら、どうして最初から紹介してくれなかったのか。変なテリトリー意識や商業的な判断は入っていなかったのか。 一連の結果だけでも後悔で打ちひしがれているのに、DUODERMの大きな文字は私の胸を再び突き刺した。こんな無神経なことをするなんて・・・被害者意識は大きくなるばかりだった。


【20 Dec 2004】
先週水曜に主人が翻訳を依頼した抗議文書について、K女史から厳粛に翻訳してくれるという連絡があった。 ただしCEOは来年1月3日まで休暇でいないので、渡すのは休暇明けになるという。翌年まで放っておかれるようだった。


【23 Dec 2004】
主人はK女史に、抗議文書の翻訳が出来たら直ちにCEOに送信してくれるようメールで依頼した。 (休暇中で本国帰国中であっても電子メールは世界中どこでも見ることは可能、大病院の代表ともあろう立場の人が音信普通であって良い筈はない。 仮に私がCEOのお立場であるならば休暇明けまで問題を放置した部下を叱ることでしょう、と) CEOがクリスマス休暇を楽しんでいる間も、息子の通院と私達の心配と心労は続き金銭的な負担も大きかった。 プライオリティ(優先度)が低いなら上げて貰いたい。K女史からは翻訳終了次第CEOにコンタクトする【努力をします】と一応メールがあった。


【27 Dec 2004】
K女史から、依頼していた抗議文書の翻訳が出来たという連絡がありFaxで送られてきた。確認後、明日CEO宛てに送ってもらう事にした。


【28 Dec 2004】
K女史から、抗議文書を修正し(翻訳のケアレスミスを2箇所訂正依頼していた)手配しました、とのメールがあった。


【7 Jan 2005】
Gleneagles病院のMs.Ong(Quality Manager)から主人に突然電話があった。抗議文書をDr.Chanに渡したが、返答はいつになるのか解らないという。そしてDr.Chanと直接 会うのであればその方が早いだろうし、その機会をつくるけどという話だった。(当事者同士でやりあってくれ、といったニュアンスが強かったようだ) 主人は、私達はGleneaglesという大病院を通して抗議しているのでDr.Chanに直接会う気はない。返答は早くしてくれるように、また、こちらは告訴する準備をしていると伝えて欲しいといった。Ms.Ongは、もしDr.Chanの返答が遅いようだったら、あなた達のやりたい様にしてくれて良い、と投げやりに言った。


【25 Jan 2005】
主人からMs.OngにDr.Chanの返答が来ないが「いったい、どうなってるのか?」とメールで問い合わせると、“週末までに”送るとの返信があった。 (問い合わせると回答を取り繕う、典型的なマレーシアンWAYだ)


【31 Jan 2005】
週末まで待っても何も来ないので、マレーシアはこんなものだと承知のうえで再びMs.Ongにメールで問い合わせる。 その際主人はCCに入っている頼りの日本人K女史を意識してか 「あなた達にとって“週末”とはいつを意味するのですか?、皆さんとっても不誠実ですね。問題を先送りすればするほど私達の怒りは増しますよ!」 とかなりキワドイ内容を送っている。Ms.Ongからの返信は「今日送るので明日は絶対届く」と、まるで“蕎麦屋の出前”だった。 おまけにK女史からのメールは「ご子息様の病状はいかがでしょうか?Ong Bing Yookへの返信の転送受け取りました。前川さんの件は上層部の扱いということで、 すでに私ははずされましてどういう進捗状況にあるのか大変気になりますが、私からお答えできることがなくて申し訳ありません。ご子息様の一日も早いご回復をお祈りしております」 というものだった。


【2 Feb 2005】
「今日送るので明日は絶対届く」の“明日”の次の日、Ms.Ongに再びメールで問い合わせる。昨日はPublic Holiday(公休日)だったので遅れてるのだろうという。 ならばFaxで送ってくれるよう頼んだが、返事は無かった(結果的にFAXの依頼は無視され、これ以降この人は暫く登場しなくなった)。 午後6時すぎてからやっとDr.Chanの返答が配達されてきた。前回のレターや記憶と照らし合わせれば小学生でも矛盾していると判断できる内容に愕然とした。


【4 Feb 2005】
元患者を小バカにしたような内容のレターであったが、後々公の席で論争する場合には病院側での日本語訳をとっておいたほうが無難なので Gleneagles病院のCEOに、Dr.Chanの返答の翻訳を再びK女史に頼みたいとメールした。


【17 Feb 2005】
CEOからは何も連絡がなく埒があかないので、痺れを切らしてCEOとK女史にDr.Chanとの面会をもつことにする、とメールした。 (Gleneagles病院はこちらから何かアクションを起こさない限り何もしないといった戦略のようだ。)


【18 Feb 2005】
K女史から返信があった。 翻訳は業者に依頼してありほぼ終了しているが、各ページに翻訳者のサインが必要でシンガポールに行っている当人が来週明けにマレーシアに戻ってから サインをして送付されるという事だった。


【23 Feb 2005】
Gleneagles病院のCEOの秘書から、Dr.Chanとの面会の日時(3月1日 PM3:30)がメールで知らされた。 K女史からもメールがあった。翻訳業者に催促の電話を入れたところ、署名すべきものが本日不在で明朝出社とのこと。業者からはクーリエ(宅配便)で金曜日中 には届くことになっており、内容を確認後、ただちに送付するというものだった。


【25 Feb 2005】
Dr.Chanの返答の翻訳文をfaxで受け取った。(ご多忙との理由で散々勿体つけられ待たされた翻訳者殿の名前をみると、KLでは色々な意味で有名な御仁だったので主人は苦笑していた。)


【1 Mar 2005】
面会第2回目。Gleneagles病院側からはCEOと問題のDr.Chanの出席予定、当方は被害者当人の息子も含めて3人だ。 面会前に病院の広いロビーでCEOとバッタリ出会い挨拶はすませたが、彼は約束の時間をだいぶ過ぎてから応接室に現われた。 (待たせるのが交渉の戦略なのか?マレー化してしまっているのか?この時点で主人はかなり憮然としていた) 病院側からは予定の2人に加えて今回はMs.Ong(Quality Manager)の代わりに優しそうなマレー系女性(癒し担当?)が入室してきた。が、K女史の姿はなかった。 CEOとDr.Chanは欧米風ににこやかに握手を求めてきたが、主人は非礼と承知のうえで冗談じゃないよと握手を拒否した。 (嘘をついたり時間にワザと遅れたりするほうがもっと非礼なのだよ、とでも言いたげに・・・) 私もここで握手などしたら一生後悔すると思った。 先方も、欧米風笑顔が一転、意外とタフなミーティングになるかも知れないといった面持ちだ。 気まずい雰囲気を引きずったまま一同着席した。 まず、主人が念のためにと通訳の同席を依頼すると、CEOは、前回の様子からみて通訳は必要ないでしょう、と通訳の同席を拒むように言った。 (専門用語を英語でまくし立てれば弱気な日本人なんてチョロイとでも思っているのか?) 喋りはともかく英語を聞くことは一応仕事で慣れている筈の主人は良いとしても、私には正しい日本語での説明が必要なのでと、強く出席を依頼すると、暫くしてK女史が現われた。 彼女には特段恨みは無いので、こちらから「いつもお世話になってます・・・」的に挨拶すると、「初めまして」と日本語で返されて唖然としてしまった。 主人は「何を言ってるんですかKさん。前回もお会いしているじゃないですか。メールだって頻繁に・・・」 K女史は何も答えず、ただ「通訳した場合うまく伝わらないこともありますので、なるべく英語で話してください」と、陰鬱に言うのであった。 暫く空いた口が塞がらなかったが、この時はじめて我々夫婦は、K女史経由で色々やりとりしていたことを深く後悔すると同時に、彼女には必要以上の 負担(こういったクレーム処理は彼女の仕事の範疇外なのかも知れない)をかけて申し訳なかったな、と思ったのであった。


ココまではまだ序の口、この続きは“殺意”すら覚える[後編]へとつづく。。。


(№48.【実録】医療トラブル体験談〔中編〕 おわり)

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