№65. LAOSでLOHAS〔中編〕


不肖・前川、現在、カンボジアのシェムリアップ州の州都シェムリアップへ移動する直前に、この“半年遅れのラオス・ネタ”コラムをアップしようとしている。 ちょうど、ラオスでは、モン族約4,000人の強制送還が、話題となっている時期であろう。 私も、ラオスに行くまでは、モン族の問題など、100パー他人事であったが、ラオス旅行をきっかけとして、新聞で“ラオス”という文字を見つけると、注意して読むようになった。 モン族の問題とは・・・ 「ベトナム戦争中、モン族は共産主義勢力に対抗し、アメリカに協力していた。 しかし、ラオスに共産主義政権が出来た75年以降、多くのモン族が、政府の弾圧を逃れて隣国タイに逃げ、事実上難民化することになった。 タイ政府としては、厄介者の難民を、早くラオスに帰還させたいが、国連などが、ラオスに送還されれば、迫害の恐れアリとして、 タイ政府にストップをかけていた」と、いう概要だ。 サイゴン陥落から約35年経て、歴史としては戦争は終わっているが、当事者達の戦争は、まだ終わっていないようだ。


私が子供の頃の東南アジアのイメージといえば、戦争、虐殺、貧困、不衛生、無知、といったネガティブなものばかりであった。 それは、テレビや報道写真で見るベトナム戦争が原因であったことは明白であろう。 そして、月日は流れ、多くの日本人が、観光地としての東南アジアを旅するようになった。 牛や人間の死体が、プカプカ浮いていたメコンも、今では、川沿いでビールを飲みながら、夕陽を楽しめるようになった。 愚かな過ちの歴史を忘れてはならないが、今の平和を噛みしめつつ、以前よりグッと身近になった東南アジアを、満喫しようではないか!


~ ~ ~ 前編からのつづき~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


【2日目の日曜日)】
ゆっくり遅くまで寝る筈だったが、習慣のせいか、はたまた、年齢のせいか、朝早く目覚めてしまった。 妻を起こして、ホテル周辺の散歩に出る。 点在する寺院はともかく、安宿、小さなレストランなど、メコン川に近いというロケーションもあり、観光客向けの施設が多い。 私は、地元の朝市のようなものを期待していたが、あまり生活臭のする地域ではなく、どちらかというとバックパッカーが好みそうな街であった。 そして、“大阪”や“東京”と名の付く日本食屋などもあるではないか。 意外なことに、日本人観光客も何組か出会った。 確か、日本からラオスへは直行便は無い筈なので、我々と同じような立場なのだろうか。 30分ぐらい街をブラつき、メコン川の川岸に戻ってくると、遠くに喧しそうなチャイニーズと思しき女性が2人、メコン川を背景に交互に写真を撮りあっていた。 こちらに手を振るので、随分と気さくな人達だな、と、よく見たら自分の娘2人であった。 ついでに、我々夫婦もメコン川をバックに写真を撮ってもらい、ホテルへ戻り、趣のあるワインパブ兼レストランで、朝食にすることにした。


朝食後は、集合時刻までの僅かな時間を読書に充てる。 何せ「年間100冊読破!」などと、公開宣言しているのに、この時点(6月後半)で36冊しか消化出来ていないので、内心焦っているのだ。 今回、持参した本は、偶然にも“さくらももこ”や“いしいしんじ”と、ひらがな系著者の“冊数稼ぎ本”達なのだ。 サクサク消化出来て嬉しいが、ちょっとズルしているような、うしろめたい気持も“無きにしも非ず”だ。


AM11:00にホテルのロビーに全員集合して、トゥクトゥクを1台チャーターし、サオ市場(Talat Sao)の喧騒を横目に見ながら、パトゥーサイ(Patousai, Patousay)を目指す。 サオ市場からは、すぐ傍の隣国タイに、友好橋(Saphaan Mittaphap)経由で行けるバスのターミナルがあるらしいが、今回の妻や娘達の計画には、市場見学はないらしい。 さて、目的地のパトゥーサイだが、これは、パリの凱旋門に似た戦没者の慰霊塔で、ビエンチャン的には数少ない観光名所のようだ。 ただ、観光名所でありながら、生い立ちは悲しい。 1960年代に建築が開始されたまでは良いが、その後の資金難で、現在まで未完のままとなっている、むなしい経緯のある半成工事・仕掛品なのだ。 ガイドブックで見る印象とは違い、大きさは、意外とデカく、高さは45mもある。 そして、タイのワット・プラケオなどと比較すると、かなり見劣りするが、塔の下から見上げると、“一応”モザイク装飾などもある。 周辺は、この慰霊塔を中心に、大きな広場となっていて、ちょっと熱いが、噴水を見ながら、ベンチで寛ぐこともできるのである。 未完成とはいえ、清潔感溢れるこのエリアにとっては、象徴的な建築物としての地位は揺るぎないであろう。 ただ、しかし、塔の下にある複数の売店・屋台はイタダケナイ。 缶ジュースや、メーカー系の菓子類を販売するのは、観光に連れてこられたチビッ子達の為に我慢するとしても、 あまり清潔とは言えない焼き鳥や、汁麺の類を、なんで政府は、この厳粛であるべき、戦没者慰霊塔の真下で、売る許可を与えているのだろうか。 慰霊塔を雨除けの屋根として使い、テーブルやプラスチックの椅子を並べ、焼き鳥の煙をモクモクとたてて商売しているセンスは、ちょっと理解し難い。 天井のモザイク装飾の仏教芸術が、煤けてしまう実害もあるので、コレは規制したほうが良いと思う。


入場料5,000kipを支払い、塔の中に入る。 暗い階段を上がり、何か歴史的な展示物を期待するが、目に入ったのは土産物屋のTシャツ、Tシャツ、Tシャツ。 階段を上る度に出てくる土産物屋 に、かなりエゲツナイ商売根性を感じるが、売り子達が静かで、あまり商売熱心ではないのには、逆に救われる。 人ひとり通るのがやっとの大きさの螺旋階段で頂上に出ると、ビエンチャンの360度パノラマが一望できる。 たかが45mの高さで?と思うだろうが、ここから見る限り、ビエンチャンには高い建物が、メコン川沿いの白いホテルひとつしかないのだ。 このパトゥーサイを中心として、ラーンサーン通り(Lane Xang St.)というメインロードが走っているが、見渡す限り、緑と低層の建物だ。 この時は天気も良く、視界も抜群であったので、かなり遠くまで望めたのだが、一国の首都の景色がコレってのは、東京出身の私としては、かなり妙な感覚だ。 「ここは郊外で、ここから車で一時間も走れば、オフィスビルやショッピングモールが林立している都会があり、パブで騒ぐことだってできるし、 コンサート会場では欧米のアーティストがライブをやっている筈」と、錯覚してしまうが、ラオス国民にとっては、ここが最大の都市なのだ。 ひょっとしたら、パトゥーサイに来て、この下で焼いている焼き鳥をテイクアウトし、ベンチで噴水を見ながらランチ・デート、なんてのが、 ビエンチャンではCoolなのかも知れないが、私は嫌だな。。。


天候と、屋上からの眺めが良いので、パトゥーサイに長居してしまったため、一同、既に空腹状態であった。 下の焼き鳥と汁麺には、まったくソソラレないので、近場のレストランを探すが、パトゥーサイ近辺には適当な処がなかった。 再びトゥクトゥクをチャーターして、レストランが多くあると言われている、街の中心地のナンプ広場(Nam Phou)に行ってもらう。 広場と言っても、たいして大きいところではない。 噴水を中心にした、円形のラウンドアバウトの周りに、小洒落たレストランやカフェが数軒並んでいる程度である。 時間帯のせいか、いつもこうなのか、とにかく閑散としているのが第一印象だ。


一同、レストランの品定めをした後、両替屋に寄り。 そして、一旦、ビエンチャンで一番豪華といわれているホテル、ラーオ・プラザ(Lao Plaza) まで歩きトイレを拝借する。 我が家では、旅歩き中にちょっと高級そうなホテルを発見すると、トイレを拝借するのを鉄則としている。 特に東南アジアはトイレが汚い可能性が高いので、美しく清潔なトイレがあるうちに、用を足しておくことは、精神衛生上も好ましい。 外国では、オフィスビルなどは、トイレに鍵をかけるところも多く、イザというときに、それらは役に立たない場合が多いので、高級ホテルのオープンさは、とてもありがたい存在だ。 因みに、マレーシアでは、ここ数年、観光地でトイレに困るようなことは、ほぼなくなったと言っても良いだろう。 まあ、どこでも、緊急の場合は、ファストフードの店や、ガソリンスタンドの裏手に駆け込めば、ほぼ大丈夫だが、逆に大都会のニューヨークなどは、 観光客用にトイレマップがガイドブックに付いているほど不便らしい。 そういや、香港島で二日酔いなのに、ビクトリアピークを目指して歩いているときに、吐き気が襲って来て、苦労したっけな。 ファストフード店は、基本的には大嫌いなのだけど、あのとき程、ありがたいと思ったことはない。(まあ、そんな話は、どうでも良いが・・・)


ナンプ広場に戻り、スカンジナビア・ベーカリーという店で、野菜、ハム、チーズなどをフランスパンではさむオープンサンドを皆で食べた。 この店、なかなか評判の良い店のようで、西洋人も多い。 何故ラオスまで来て、“スカンジナビア・ベーカリー”で食事なのか、もったいないような気もするが、 このときは、皆空腹で、私個人としては、汗をかいた後の冷えたビア・ラオさえあれば文句なかったのだ。 この店に入る前に、妻は近くのLa Cave Des Chateaux Nam Phouというフレンチレストランが気になっていた。 「せっかくの旅行なんだから、こんなお店で、フランス料理を食べてみたい」と、エントランス付近で主張したのだが、 私としては、このタイミングでフレンチっていうのも、ちょっと、気持ちと財布の準備が出来ていなかったので、 明日来ることを確約して“スカンジナビア”にしたのであった。 実を言うと、明日は月曜日なので、ひょっとしたら、このフレンチは定休日ではないかという、金銭的理由による希望的観測のうえでの判断もあったのだ。


腹も適度にふくれたので、またまた、トゥクトゥクをチャーターして、次はタート・ルアン(That Luang)という黄金の寺院に向かう。 トゥクトゥクの値段交渉中に、隣で別のトゥクトゥクを交渉している、単身旅行中と思しき日本人の中年バックパッカーを見かけた。 聞くとはなしに、聞こえてきた金額は、我々6人分の料金と同じであった。 まあ、良く考えたら、6人乗りの車なので、単独で乗ろうが、満員であろうが、営業的には同じ料金をとりたいだろう。 料金表を明示しているところは、1~3人まで○○○kipというように明朗会計のようだが、中には客の足元を見るような輩もいるようで、 そう考えると、一人旅ってのも、逆にカネがかかる場合もあるのかと妙な発見をしてしまった。 ただ、それ以前の問題として、“中年バックパッカー”ってのは、あまり、カッコイイもんではないな、と思うのだ。 あの元祖貧乏旅行家、下川裕治センセイだって「中年になってからは、安宿で金をケチるより、普通のホテルでゆっくりしたい」と、おっしゃってるではないか。 コラムNo.62,63,64で登場する、自称バックパッカーのY君などは、マレーシアでは移動費をケチるために、多大なる時間を費やしていて、 肝心の見所に注力する時間が乏しく、結果的に機会損を被っていたようだが、我々中年以上は、ちょっとした費用をケチるより、 やはり、残された時間や、限られた機会を、大切に有効活用すべきだと思うだが、どんなものであろうか。


度重なるトゥクトゥク利用で、段々見慣れて来た街を、東の方角へ戻る。 パトゥーサイを越えて暫くしたら、サッカー場のような、巨大な駐車スペースの向こう側に、金ぴかのタート・ルアンが見えてきた。 トゥクトゥクを降りると、日中の太陽で、首が焼けるように熱い。 入口付近で、熱射病を避けるための日傘が売られている(レンタル?)のも頷ける。 南方を転戦した旧日本軍のように、ハンカチを帽子で固定して、首が焼けるのを防ぐ。 先の大戦で、ヤリタイ放題やってきた、この東南アジアで、この格好は、ちょっと気が引けるが タート・ルアンは巨大な敷地なので、直射日光の下で歩き回るのはかなりキツイのだ。 最初のゲートから、タイ航空の宣伝が書かれたベンチが連なる広場を歩き、この寺院を建造した、セーターティラート王像前で記念写真を沢山撮る。 セーターティラート王像の真後ろに位置する小さな門から、メインの寺院の敷地に入り、黄金塔へは敬意を表し、靴を脱いで上がる。 強烈な日差しで熱せられた石の地面が、足の裏に熱いからなのか、習慣の違いから来る無知なのか、ある西洋人グループは、土足で黄金塔の周りを見物していた。 「東洋の文化をナメたらアカンぜよ!」と、注意してやろうかと思ったが、以前、撮影禁止のイスラム美術館で、写真撮りまくりの白人少女にダメ出ししたとき、 その母親に不愉快な態度をとられた経験があるので、おせっかいは止めておくことにした。 こんなことなら、タイの寺院や、マレーシアのモスクみたいに、係員が来て煩く注意するシステムの方が、善良な客としては、公平感もあり、かえってありがたい。


しかし、この黄金寺院、王像前あたりから見ると、真っ青な空を背景に、黄金の塔がなんとも美しいが、近くに寄ると金色がかなり煤けている。 数年前に、金色に塗られてから、財政難で放置されてしまったのだろうか。 遠目はサイコーだが、近寄ると肌荒れ酷く、不摂生な遠目美人のようで、 黄金を間近で見られることに期待が膨らんでいた分、興醒め度も大であった。 (まあ、自分こそ、こんなこと言って、東洋の文化をナメたらいけませんね。。。)


流石に炎天下を歩きまわるのは疲れたので、タート・ルアン敷地内にある、土産物屋ストリートで、ジャンクな土産を買い、ホテルへ帰ることにした。 私は、当地に来てファンになった“BeerLao”のロゴ入りTシャツを買い、娘たちはアクセサリーを値切って買っていた。 トゥクトゥクでホテルに向かっている途中に、天候が急変して大雨になった。 トゥクトゥクの運ちゃんは、雨対策用のシートを下し、視界が悪くなるほどの雨の中を、スピードを上げて爆走する。 トゥクトゥクのチープなエンジン音と、街の景色から、一瞬、これから戦場に赴くベトナム戦争当時の兵士のような気分になるが、 到着したのはフエでもダナンでもなく、宿泊しているインター・シティー・ホテルであった。 疲れたので、シャワーを浴びて、ちょっと休もう。


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雨上がりの夕刻。 メコン川に沈む夕陽を見ようと、妻と川沿いを散歩に出たが、まだ日没には早いため、街中の賑やかな通りを散策することにした。 朝の散歩では気付かなかったが、コンビニやスーパー、そして、レストランやパブまで、それなりに繁華街の体は保っているようだ。 しかし、どう見ても日本でいえば場末の雰囲気。 一国の首都としては、非常に寂しい限りだが、3泊4日の旅行者にとっては、どうでも良い。 とりあえず、私としては、旨くて安いものを食べさせてくれる店があれば、それで無問題なのだ。 繁華街の一角で、ベトナム系料理を出す店が気になったが、日没も近くなったので、メコン川沿いに戻った。 子供達との待ち合わせにも便利なので、ホテルエントランスから、道1本を隔てて真正面の、川沿いの屋台に座り、ビール(BeerLao)と、タイ風イカサラダを注文した。 ビールを待つ間、景色を見ていると、地元のガキ共が、川向うの空を指差しているので見てみると、なんと虹のアーチがかかっていた。


メコンの夕陽を見た後は、この川沿いの屋台で、夕食にしようかとも思ったが、手作りの写真メニューを見ると、あまり旨そうなものが無い。 そして、ツマミにオーダーしたイカサラダも劇辛過ぎて腹を壊しそうだ。 子供達がホテルから出てきて、ジョインした後、先程の散策で気になっていた、ベトナム系のレストランに、私の一存で行くことにした。 まあ、レストランと言っても、私の行く“レストラン”は、単に“屋台じゃない”というだけで、ソムリエが居たり、美食ガイドブックで星がついたりする店では、勿論ない。 その店では、散策中にチラリと覗いたときは、以前ハノイで食べた「ブンチャ」に似た料理を出していた。 この夜は、特別に食べたい料理は思いつかなかったのだが、この店を見て、 国境とは無関係に、折り重なる東南アジアの食文化圏のミックス度を実感したくて、食べてみたくなったのだ。 「ブンチャ」というのは、炭で焼いた豚肉(ミートボールやミニバーグ状)を、ニョクマムという魚醤入りの甘酸っぱい汁に浸し、 ソーメンのような米麺と、生野菜(シソの葉?)で食べるハノイの伝統料理なのである。 最初は、「別々には知っている味だけど、この組み合わせで食うのかよ、それも、こんなに大量の葉っぱと!?」と、戸惑ったが、 慣れてくると違和感がなくなり、最後には、生春巻きやフォーよりも、好きになってしまったベトナム(ハノイ)料理だ。 ラオスは、ベトナム、中国、ミャンマー、タイ、カンボジアに囲まれているので、当然のように“食”も周りの国々(というより民族か)に影響を受けているだろう。 私は専門家ではないので、詳しくは分からないが、旅先で食した地元の料理で、「ああ、ここは、食文化的には○○○の影響が強いんだな~」 などと自然に気付かされるときが、とても好きである。 だから、ここビエンチャンでも、限りある食事機会を大切にするためには、間違っても“大阪”や“東京”と名のつく日本食屋などには行かないのだ。


店に入ると、けっこう繁盛しているようで、なかなかサービスに来ない。 やっと、オーダーをとりに来たと思ったら、言葉がほとんど通じなく、且つ、店員がかなり無愛想なことにも気付いた。 写真付のメニューを指さしながらなのに、こちらの質問や、オーダーする分量で、なかなか意思疎通が図れない。 店員は店員で、当然の如く仏頂面で、且つ、上から目線だ。 純粋日本人感覚だと、この手の態度は噴飯モノなのであろうが、海外暮らしをしていると、愛想が無い店員など気にしていたら、旨いモノは食えないのである。 ただ、彼らは悪意で愛想を悪くしているワケではなく、愛想良く振る舞う習慣がない場合が多いのである。 一方、地元客側も、そんな細かいことまで期待してるワケではなく、旨くて安けりゃ、何にも文句無いのである。


オーダー取りの段階で、埒が明かなくなってしまった。 まあ、こういう状況のときは、皆で個別にアレコレ言わず、長女を店とのインターフェイスとして一本化するのが、 今までの経験上、ベスト・プラクティスであることは言うまでもない。 「乾杯するので、食べ物より、ビールを先に持ってきて!」と、モタモタする店の男を叱咤し。 「乾杯のグラスがひとつ足りない!」と、マネージャらしき人をつかまえて催促し。 「これはナニを付けて食べるのか?そのまま食べるのか?何かに巻いて食べるのか?」と、ウェイトレスに実演させる。 すったもんだの挙句、ブンチャのような料理に、春巻きのようなもの(生&揚)、そして定番のビアラオで、一同、無事満腹となったのである。 店員が、「料理はどう?」と、ばかりに、我々のテーブルを見回りに来たときに、 こちらも満腹になった大らかさで「美味しい!」と、正直に伝えると、仏頂面が満面の笑みに変わった。 (なんだ、けっこうイイ人じゃん!) 東南アジアに居ると、日本人的にはムカツクことも多いが、ときどき、こういう嬉しい瞬間にも出会える。 自分としては、ファスト・フード店などで、マニュアル通りに作られている“無料のスマイル”よりも、こういう“満面の笑み”の方が100倍価値があると思っている。


ベトナム料理店を出て、小さな繁華街のスーパーマーケットや、デザインTシャツを売っている店、 そして、何故か、日本の演歌歌伴ギタリストのベスト盤などのレアものが置いてあるCD屋などをひやかしてから、暗い道をホテルへ戻った。 今回の旅は、もっとダラダラして、英気を養う筈であったが、今日もしっかり疲れてしまった。 一家の主が過労だというのに、前川家の旅の定番である夜の“宴会”は、今夜も開催されるようである。


後編へとつづく。。。


(№65. LAOSでLOHAS〔中編〕 おわり)

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