№5.理髪店 「とこや」


海外での散髪は鬼門である。日本で男性が髪を切る場合、殆どの人が馴れ親しんだ理髪店に行きオヤジさんに「いつもの通りですね」などと言われて、後は店のラジオでも聞きながらウツラウツラしているのではないだろうか。遠くへ引っ越しても散髪の為に以前住んでいた町にわざわざ行く人は珍しくないし、家のまん前に新しく安い店がオープンしても「今度からここで散髪しよう」などと思わないものである。店員は客の肌に直接触れ、刃物で顔を剃る、「こいつ新人だな、顔に傷でも付けられたらたまらんな」などと信用出来ない人間が相手ではとても落ち着いて座っては居られないだろう。それほど理髪店という所は店の人と客の結び付きが緊密で信頼関係で成り立っている商売なのだと思う。


日本で暮らしている方で外国に行って髪を切った経験のある方は意外と少ないのではないかと思う。長期滞在でもないかぎり時間がもったいないし、俗に言うマッサージパーラーのようないかがわしい場所もかなり多いとガイドブックに書いてある。本当に必要でないのなら興味本位で行っても別に楽しい所でもはないので行く必要はまったくないと思う。しかし、海外在住となるとそうも言ってられない、こちらの都合とは関係なく日々髪の毛は伸びてくるし、ソフト開発屋と言えどビジネスパースンとしての身なりは整えておかなければならない。そこで渋々ではあるが慣れない土地で理髪店を探すことになるのである。マレーシアに来て暫くは日本に出張で帰ったときに昔馴染みの理髪店に行っていたが、ある時忙しくて行きそびれてしまいマレーシアに戻ってから髪を切ることになってしまった。まず、どこに理髪店があるかも知らないし、どんなシステムで値段がいくらなのか見当もつかない状態なので暫く髪を伸ばしっぱなしにしておいた。そんなある日、パソコンを購入した日系販売店の事務所に小切手を持参した後にビルの中をあるいていたら日本と同じあのクルクル回る赤・青・白のストライプが目に入ってきた。「あっ、こんな所にトコヤがあるじゃない!」と思いつつも入る勇気が無く2~3回廊下をうろうろした挙句、意を決して一気に店の扉を開けたのが初めての海外での散髪だった。その店は中国系で、今思えば日本のそれにかなり近い雰囲気だったのではないかと思う。髪を洗う洗面台もあったし、顔をシェービングクリームで剃ってくれたし、たっぷり時間をかけたマッサージも気持ち良かったし、最後はちゃんとドライーでセットしてくれて、お茶のサービスもあり非常に安い値段(詳細は緊張していたので覚えて無いが1,000円くらい)だったと思う。理容師が店の中で匂いの強い昼飯を食べていたり、自分の髪を洗いながら客をそっちのけで仲間同士雑談してたりすることが気にかかるが、ローカルの理髪店もさほど悪くはないことを知り、今まで日本で払っていた金額(3,800円)が急にバカらしくなってしまったのを今でも覚えている。


時の流れは早いもので、初めてローカル理髪店に入ってからもう一年以上が経過した。今現在私が通っている理髪店を紹介しよう。それはインド系の人達が理容師として働いている、日本の感覚からするとかなり怪しい雰囲気のする店である。店内にはインド音楽が流れ、ヒンドゥー語かタミール語か分からないが英語や中国語とは明らかに違った言葉が飛び交っている。例の中国系理髪店も現地金銭感覚が染み付いて来た身には贅沢だと思いはじめ、もっと安そうな店を探そうと思い見つけたのがこの店だ。まず扉を開けると7~8人いる理容師達の鋭い視線に晒される。「なんで日本人のお前がこんなところに来るのか?」とでも言っているようで、最初の時は本当に帰ろうかと思ったほど怖かった。めげずに待合席に座り順番を待つ、ひとり分の所要時間が短い為、あまり長い時間待つ必要はない。「次はお前さんだぜぃ」みたいな感じで呼ばれるので理容台の席につく、切った髪が服につかないように首から下を覆う大きな布を持ってくる。ここ迄は雰囲気に慣れてしまえば日本と同じシステムである。しかし、ここからの散髪方法は日本の懇切丁寧なやり方とは全く違い驚きの連続となる。首より下を覆う布は様々な人種で共用な為に直接触れる首の部分は使い捨ての紙を巻いてくれる。日本では肌にやさしい専用紙を使い清潔そうなのであるが、ここではトイレットペーパーを手でクルクル~スパッと切り取り首に巻き例の布セットするのである。その後なんとバリカンのスイッチをオンにして後ろからスー、スーっと髪を素早く削って短くしていく。ある程度型が整うまでその作業を続けること7分、この時点で早くも全工程の6割は終了してたことに後になって気づくのである。メインであったバリカン工程が終わるとハサミに持ち替え頭の上の部分の毛の量を減らし、前と鬢を整えるとハサミカット工程も終了する。何かの本に「ローカルの理髪店ではコクヨなど文房具のハサミを使っているところがある」などと書かれていたので最初は心配したが、しっかり理髪店用のハサミを使用していたので彼等の名誉の為に付け加えておきたい。この時点で既に首から上半身にかけて細かい毛髪の削りカスが敷き詰められているが、そんな事は全く気にならないほど緊張する剃刀工程がまだ残っているのである。そもそも見知らぬ土地で理髪店に行きたくない絶対的理由は刃物を直に肌にあてられるのが怖いからだと思う。まして、資格なんて持ってるか分からないし何年も修行して一人前になるような忍耐があるとは思えないこの国でシェービングクリームもつけずに剃刀でガリガリやられるのだから緊張もピークである。刃自体は毎回新品に交換しているようで錆びてはいないようだが、剃っている後ろで子供が暴れはしないか、隣の理髪師の肘がこいつに当たらないか、新入りなので手が震えてないか、万一の際は保障はしてくれないだろうが薬くらいはあるのか...際限なく不吉なことが頭をよぎるのである。海外旅行でスリルが欲しければスラム街なんて行かなくても街の理髪店で充分味わえるのである。冷や汗モンのこれが終われば霧吹きでシュー、シューっと髪を濡らし櫛で横分にして全工程約12分の終了となる。シャンプーなどしないし、したくても洗面台も無い。しめて13リンギット日本円にして約380円、丁度日本の一割の値段だ。で、気になる出来栄えと言えば?.......マレーシアで散髪してから一月くらい後に沖縄の那覇で散髪する機会があった、店の主人が私の頭にさわりながらモジモジしているので、「やっぱり変ですかね、これマレーシアの理髪店でやってるバリカンのカットなんですけど」と言ったら「長年この仕事やってるけど、どうやったらこんな不揃いにカット出来るのか不思議だった」そうだ。やっぱり値段通りの質なのだろうか、散髪して一週間もすれば日本もマレーシアも違いが分からないと思っていたのだが...「日本の顧客に会う前は日本でカットしてからにしよう」と心に決めながらも日本では3,800円の理髪店にはどうしても行けず、マレーシアに帰ってきて380円のローカル理髪店に行ってしまう自分が侘びしいような可愛いようなこれもまた複雑な気分である。


(№5.理髪店 「とこや」 おわり)

前のページ/ 目次へ戻る/ 次のページ