№72. 「空気」と「ゆでガエル」


最近、書籍やネットで「ゆでガエル」という言葉をよく見るようになった。 「突然、熱湯にカエルを入れると、驚いて飛び跳ねるが、常温の水にいれ、徐々に熱していくと、その水温に慣れていく。 “ああ、イイ湯加減だな~”などと油断していると、最終的に水は熱湯になり、もはや逃げ出す力を失い、飛び上がることもできずにゆで上がってしまう」 という間抜けなカエル君の話である。まあ、ホンモノのカエルは、熱くなった時点で、逃げ出すと思うけど、 悪い意味での“慣れ”という特殊能力をもった、人間様を揶揄したものの喩えである。 東日本大震災直後に、特大の活字で放射能漏れを報道していた新聞を見て、「これはマジでヤバイことになった」と、思ったアナタ。 今では、「へぇ~、最初からメルトダウンしてたんだ。でも東京は関係なさそうだし、大丈夫かな?」なんて、軽く考えていないだろうか。 テレビで枝野さんが、「直ちに人体(健康)に影響は無い」と言っていたので、「それじゃ、ちょっと様子を見てみるかな?」 などと、そこで思考停止中の忙しいビジネスマンはいないだろうか。 本当に、放射能汚染問題が、自分の住む地域に関係無く、そして、人体への影響もゼロであれば、それはそれで良い。 ただ、震災から100日間経った今日現在、新聞などで報道されている内容は、事故直後に発表を躊躇した不都合な情報を、 なし崩し的に知らされているような気がしてならない。 政治や行政が意図したか、しなかったかは別として、国民を過度に刺激せず、徐々に“残念な情報”に慣れさせる、所謂「ゆでガエル」政策が 結果的に実行されてしまっているのだ。


“大本営発表”という言葉がある。 先の大戦で、国威発揚のために、軍部が戦況を国民に伝えていた公式発表である。 当初は事実を伝えていたようだが、ミッドウェイ海戦あたりからは、遠く南方で、絶望的な戦いを強いられているにもかかわらず、 “連戦連勝で兵士の士気も高い”的に、国民を鼓舞し、自らの作戦失敗を覆い隠す、エリート軍人達の保身プロパガンダとなってしまった。 あるサイトでは、「昭和20年8月14日最後の大本営発表までの3年9ヶ月の間、新聞・ラジオは大本営発表を報じ、国民はその内容を疑いもなく信じ続けた」 とあるが、私は、それは無いと思う。 口には出せないが、「これは、おかしいのでは?」と、当時であっても、正しい状況判断をする人が少なからずいたと思う。 しかし、この時代、もしそんなことを口外すれば、即座に“否国民”のレッテルを貼られ、村八分になり、周囲の冷たい目に晒されてしまう。 心でどう思っていても、家族のため、親類のため、そして自分の将来のためにも、沈黙するしかなかった筈だ。 中国の文化大革命もそうだが、時代の「空気」というものは恐ろしい。 殆どの人達が、「そんなことは理不尽で嫌だ」と考えていても、互いに監視し合い、自由を奪いあう。 国家の上層部ですら、その意思決定は「空気」に支配されていたと言われているが、本当のところ、いったい誰が望んで、そんな状態までもって行ってしまったのだろうか。 この時代、「王様は裸だ!」と、子供達に笑われて、ふと我に返る王様は居なかった。 なぜならば、支配しているのは王様のような個人ではなく、「空気」というバケモノだったからだ。


今の原発問題の報道はどうであろうか。 震災直前から、テレビを観る習慣を“断捨離”してしまったので、NHKすら観ていない自分だが、 権威ある新聞や公共放送系のネットサイトと、週刊誌系のサイトでは、かなりの温度差があって驚かされる。 大本営発表的な内容を、論調を変えて流しているような、ある意味「空気」の読める前者に対し、 後者は、刺激的なタイトルで、次々と隠れた内容に光を当てて暴露して行く構図だ。 一見、“えげつなさ”感もある週刊誌だが、“利権ガラミ”や“情報操作”など、聖人君子でもない人間のやることは、 「内容が醜悪な分、表現が適切だった」なんて、笑えない事実も、霞ヶ関の人達にモテモテだった、某しゃぶしゃぶ店のニュースなどで、我々は勉強済だ。 週刊誌は、私人のプライバシーを蹂躙するようなこともやっているので、報道機関としての社会的な権威はイマイチだが、 こと危機管理問題に関しては、“最悪の事態”を臆面も無く読者に提示してくるので、私はアリガタイとさえ思っている。 官僚からの陰湿な圧力に対しても、毅然として(というより“おいしいネタ”として)反論する姿勢は、その内容はともかく、 言論統制のあった戦時中と比較すると、心強いかぎりだ。 そういう意味では、マスコミ本来の役割である“権力の監視役”としては、 村八分を嫌うサラリーマン集団である、大手新聞社よりも適しているとさえ言ってしまおう。


話は飛ぶが、3週間ほど前(2011年5月後半)に、震災後はじめて出張で日本(東京)へ帰った。 会う人、会う人が「あのとき(3.11)は死ぬかと思いましたよ」と、生々しく語っていた。 事務所の中で倒れるロッカー、左右に揺さぶられる電車、出張先の高層ビルの共振、今まで経験したことのない規模の地震に遭遇し、 「ひょっとしたら、ダメかも知れない」との思いが頭をよぎったのであろう。 揺れが収まった後も、会社に泊まった人、帰宅難民スレスレだった人、液状化に悩まされた人、断水でトイレに苦労した人、 皆、それぞれが、大変な経験をしたようだ。 ただ、「もう地震や津波は懲り懲りだ、どこか遠くに逃げたい」といった趣旨の発言をする人は、私の会った人達の中には、不思議といなかった。 そして、更に不思議なことに、今後の東京における、放射性物質の被害の可能性に言及(心配)するシリアスな会話は、ほぼゼロであった。 もう、この手の話は、既に会話し尽くされていて、話題性が無くなっているのであろうか。 「天変地異は不可抗力。原発事故も国や専門家が努力している最中なので、ガタガタ言ってもしょうがないじゃないか」 といった、ある種の諦念が、忙しい日常と合理的にマッチしてしまい、この“身近な危機”に対しても、 無関心でいるほうが精神的に楽なのだとしたら、ちょっと怖い「空気」ではある。


東北に里帰りしていて被災したという人にも会った。 電気が来ないため、マスコミの情報が無く、未曾有の大災害だと知ったのは、本震から数日経った後だった言っていた。 震災当日に、遠くマレーシアでも津波の映像を見ていたので、なんとも不思議な感覚だが、現実とはこんなものであろう。 しかし、東北の人は粘り強い。 この人の母親は、現在も東北在住だが、故郷は自然災害で、こんなにズタズタにされ、尚且つ、 放射能汚染の疑いがかなりの確率で進んでいても、故郷を捨てて引っ越すつもりはないようだ。 高齢なので、今更、住み慣れた土地から、新しい場所に移り、生活基盤をつくることは億劫だし、費用の問題もある。 親戚に頼るのも、長い期間であれば、いつかは疎んじられるのがオチだ。 幸い家は無事に残っているので、放射能汚染の問題はあるが、警戒区域でもないので、出来るだけここで自由に暮らして行きたい。 と、いったところであろう。


企業は、電力不足と円高、そして、地震や放射能汚染を超リスクと判断し、生産と部品調達の海外移転の規模拡大について示唆しているところは多い。 一方、個人や家族単位となると、危機意識はかなり違ってくるようだ。 目の前にある“生存の危機”に対して、実に淡々としている人達が多いように感じてしまう。 私などは、「茨城沖大地震のおそれ」とか、「立川断層帯に要警戒、首都直下型地震の可能性」なんてニュースを見る度に悲観的になってしまうし、 福島第一原発の事故などは、「常に“最悪の事態”を想定しておかなければならない!」と、エラそうに家族を言い含めている。 こんなことを書くと「大袈裟な人だ」とか、「そんなに危機感を煽るな」と批判されてしまうかも知れないが、 私は、今後の高濃度放射線被曝問題は、原因究明から補償までに、長期間を要した水俣病訴訟の二の舞になると、かなり真剣に思っている。 原因が誰の目から見ても明らかな被害を、誠意の感じられないノラリクラリ対応でかわされてきた被害者や、 結審前に亡くなった人達の無念を思うと、もし、自分が被害関係者であったならば、とても冷静ではいられないだろう。 最終的には、金銭的な損害は補償金によってカバー出来るだろうが、一生を棒に振るような健康被害と、それに伴って失った時間は、 いくらカネを積まれたところで、到底承服出来るものではない。 私のように、既に“半世紀少年”で、子供も巣立って行ってしまったような立場なら、カネと余生の取引も悪くは無いが、 まだ数年しか生きていない子供達から、可能性のある未来を奪うことは断じて許せない。 まして、それがお役人の保身や、企業の損得勘定で、子供達の人生を翻弄するようであれば、“半世紀少年”としても怒り心頭である。 今回のケース、万一、数年後に原発近くの地域で、高濃度放射線による健康被害が続出したとしても、お役人は 「現在の技術では、当時の判断は間違っていたと言わざるを得ません。ただ、あのときの技術ではあれが精一杯で、我々の過失は問われません」 などと、“想定外”を強調した釈明に終始することは、過去の例からも、充分予想される。


「天は自ら助くる者を助く」を、ウリ文句にしているかどうかは知らないが、マレーシアにも原発被害避難型ロング・ステイ(長期滞在)が増えてきているらしい。 参加者の多くは、時間に余裕のある高齢者だそうだ。 おそらく震災が、「いつかは海外暮らしを!」と、考えていた人達の背中を押したのであろう。 元々海外志向があり、且つ、時間の自由な高齢者は良いが、 小さな子供を持つ親世代の多くは、仕事で毎日忙しく、ロング・ステイで海外に避難するなどといった発想は、あまり現実的ではないかも知れない。 しかし、警戒区域外でも、風向きなどの条件によっては、重大な被害が確実視されている場所もある。 現実的な策か、否かの議論は脇に置いて、被害が想定される地域に住む、小さな子供を持つ親達に言いたい。 政府の誰かが「ここは、放射線量の安全基準値より低い!」と言ったとしても、 「仕事でこの地域を離れるワケにはいかない」などの理由があったとしても、 そこで思考停止してしまい、「ゆでガエル」状態に甘んじていてはダメだ。 実際問題、被害に遭ってからでは手遅れなのだから、今すぐにアクション(子供の疎開)をおこすべきだ。 数年後に、小児白血病や甲状腺ガンなどの晩発性傷害で、「どうして、お父さんとお母さんは、僕を守ってくれなかったの?」と、 言われながら自分の子供をみとるなんて、想像したくもないではないか。


未だ発見されていない行方不明者を、必死に捜索している人達。 劣悪な環境で、自らの危険を顧みず、作業している原発作業員達。 地方自治体の職員や、ボランティアの人達にも、遠くの安全地帯からこんなメッセージを発信するのは、とても気が引ける。 そして、正直なところ、原発や放射線物質などの技術的な部分は、私には難しくてわからない。 分からないものを題材にして、こんなところで書くのも、とても恥ずかしい。 ただ、「理解できないくせに、根拠もなく不安がるな!」といった「空気」は、こと原発に関しては無視すべきだと私は思う。 詳しい知識がなくたって、生存を脅かすような類の危険なものは、感覚で分かるもんだ。 結果的に、対策が“空振り”であれば、それはそれでハッピーではないか。 そういうものが、“適者生存の法則”と呼ばれるものだろう。


(№72. 「空気」と「ゆでガエル」 おわり)


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